サトウレン

多分花粉症だったっぽい

齋藤飛鳥とかいうアイドル

マジで可愛すぎる。マックで初めてまともに写真観たら可愛すぎて3㎝くらい飛び上がった。最近のアイドルは自撮りの破壊力が高すぎてよくないと思います。

 

多分ここからブログだの色々調べ始めると握手会だのライブだのに行きたくなっちゃうのが目に見えているので、絶対にブログとか読まない。アイドルのブログは危険である。麻薬である。

 

とか言いつつもう普通にブログ読み始めた。

 

ブログの内容が面白いか面白くないかはさておき、『面白いことを言おうとする』というのが最高だと思う。可愛いは正義である。

 

ということで、今日は本の感想を書いていく。

 

読んだのは、村上龍の『すべての男は消耗品である』っていうエッセイで、『ザ・ベストマガジン』という雑誌の連載をまとめて文庫本にしたやつ。(だと思うよ、細かいことは知りません)

 

小説もエッセイも読んでいて前から好きだったんだけど、

村上龍に関しては小説よりエッセイの方が引き込まれるなと思った。理由は後述する。

 

話を戻そう。

 

内容は題にある通り、『すべての男は消耗品』という彼の言説がまずあって、

村上龍が好き勝手に男だの女だの男女関係だのについて書きまくるっていうだけ。

 

別にこの本を通じて何かが筋道立てて論証される訳じゃないし、多分論証しようとしてすらいないと思う。元は雑誌の連載だしね。

 

この本の中で村上龍が言ってるのは、

 

『男』という生き物は生き残っていく為に、不可避的に『父』にならざるを得ない。(ここにおける『父』とは生物学的な意味ではなく、あくまで心理学レベルの意味合い)

 

そして『父』と、それに伴って生じる『父権』というのは、社会という『制度』の中でしか成立し得ない。

 

『父』は『制度』の中でしか成立しないから、『男』は『社会』という制度が生ずる枠組みを絶対的に必要とする生き物だと言える。

 

対照的に、村上龍は『女』を制度の外側でも生きていくことの出来る存在として対置する。

 

『父』とは異なり、『母になる』(ここでの「母」は生物学的な意味合い)というのは生物として不可避の事象だから、と、彼はこう述べている。

 

種の保存のみを純然に目指すのなら、制度に必然性はない。

 

制度の外側で生きていくことが出来る女に、幻想の『父性』を背負わされ、宿命的に消費され続ける男は女に敵わない。

  

 しかし現在、制度の枠組みの中で『父権』はすっかり影を潜めた。

『父』は、社会の中で効力を失いつつある。

そして、父としての権威を失った『男』は形骸化した『父』として、

制度の歯車として消費され続けるのみになった。

 

反対に、『女』は制度の中で自由を享受し始め、制度の外側(不倫とか)にも出て行くようになる。

 

何かもうよく分からなくなってきた。

 

村上龍も事ある毎に、「俺は何を書いてたんだっけ」とか、「この問題を明確にするには天皇制の興りまで遡る必要がある」って書いてるし、上手く内容を纏められなくても別に俺のせいじゃない。俺は悪くない。

 

とにかくそんな感じの本だ。

 

当時34歳?とかその辺りの村上龍のバイアスが全面に押し出された内容になっているので、

読み終わってから「何だコイツ」となる人も多いと思う。

 

この本を結構気に入ったのは、共感するとか観点が斬新とかそういうことではなく、

単純にこの本の中の村上龍という一個人の在り方に好感を抱いたからだ。

 

著作や、インタビューとかラジオでの発言から分かるように、村上龍は良くも悪くもオブラートというものを一切使わない人間だと思う。

 

「ブスは論外だ」と開始数ページで正面切って書ける作家はそういないのではなかろうか。

 

個人的には、そういう「嘘のなさ」が気に入っているのかもしれない。

 

 村上龍に関しては物語の形に主張を変換する小説よりも、ストレートに個人として物が言えるエッセイの方が読んでいて面白い、気がする。もちろん小説も面白い。内容が過激で他人には薦めづらいのが玉に瑕だ。

 

 

うーんとね

 

 

そんな感じ